P-paradise 代表 わたなべよし美ヒストリー

旭川市立旭川小学校、旭川中学校、北海道立旭川東高校卒業後、昭和音楽大学器楽科、および専攻科を卒業。 音大二年生の夏、客員教授だったペルティカローリ先生の初レッスンの時、「君はピアノは下手だけど音楽がある」と、ザルツブルクのモーツアルテウム音楽院のサマーセミナーにおいでと誘われ、私、音楽で食べてける?と最初の勘違い。その翌年の夏、ザルツブルクで一ヶ月間世界中のピアノを勉強してる人たちの中で過ごし、そっから心を入れ替え帰国後も音楽だけの日々を過ごす。音大に入るまでピアノを弾ける方から、ピアノを教わったことがなく、ペルティカローリ先生に会ってから自分がハチャメチャな方法でピアノを弾いてることに気付き、基礎から叩き直しが始まり、一年ほど泣きながら練習の日々を過ごす。

恩師である今は亡き細川哲朗先生は、入学した時からピアニストはいろんなことを体験すべきだとおっしゃってくださり、自分が中学高校ずっと吹奏楽漬けだったこともあり、入学してすぐに管楽器や声楽とのアンサンブルの機会を与えてくださった。常に自分のピアノの楽譜以外にアンサンブルの楽譜が10曲以上持ち歩いていて、色んな演奏をする機会に恵まれた。試験の度15人以上いつも伴奏させてもらうわけだが、その度に色んな先生方のレッスンについていくことができた。これはとてもラッキーであったし、その管楽器などの先生から外でのお仕事もいただけるようになった。そして、このまま仕事できるとまた勘違い。ソルフェージュの先生には、時間外でレッスンもしていただけ、(自分からお願いしたわけではないけれど、アンサンブルピアニストとして必要だからと、超現代曲の譜読みを薦められレッスンされた。)そうか、私はピアノ弾いて生きていくのか〜と、また勘違い。

そんな感じで、自分のピアノはそっちのけだったにもかかわらず広ーーーーい心でいつも飴飴飴ムチしてくださった細川先生が大好きだったが、自分が専攻科卒業の年、胃がんで入院してしまう。。。。最期くらい、先生にいい思いをさせてあげたくて自分の試験の曲を頑張り、演奏会方式の卒業試験では演奏終了後、試験官で演奏を聴いてくださった先生方、全然話したことのない先生が楽屋に押しかけてくれ、歴代最高の演奏だった、あれはお金を取れる演奏だったと、たくさんめちゃくちゃ褒められ、握手を求められた。再度、ピアノで食べてけるかもと完全に勘違い100パーセントである。卒業後は留学のつもりで語学学校にも通い、退院された細川先生のレッスンにも通っていた私だったが、自分でもびっくり、あっけなく結婚してしまった。その結婚報告をして間も無く、細川先生は帰らぬ人となってしまった。同じ門下の後輩には、よしみ先輩が結婚したせいで先生死んじゃったんだなどと、言われた。24歳のことである。

やがて、子供もでき、ピアノからは遠ざかり、ある日生活の事情でグランドピアノを売ってしまうに至る。すごい展開に、意味がわからない日々が始まる。

結婚して8年。その日は突然訪れた。子供はすでに3人おり、夫の実家のある飯能というところに引っ越す。その近所に、グランドピアノを持ってる音楽家が住んでいるという情報を得て、会いに行ってしまった。話をしてるうちに、本当はピアノがやりたんじゃないの?と言われ自分の中でずっと殺してきてた何かが爆発してしまう。

ピアニスト復活を誓った32歳。2、4、6歳の子を連れ離婚。いつでも使っていいよと言われ、そこのお宅でのピアノ練習の再開。また、自宅に70畳のスタジオを持つ方とも知り合い、そこのスタインウェイのフルコンをいつでも練習しにきていいよと解放していただく。ピアノを持っていないのにピアニストとして本番の場を与えていただく。合唱団ききゅうのピアニストの仕事もいただく。とにかく人前で弾くには何があるかばかり考え日々を過ごす。飯能で出会ったその音楽家は、シモシュといい、作曲、アレンジ、演奏で生計を立てているアーティストで、彼が色々話を持ってきてくれた。彼の音楽は今まで出会ってきたものとは全然違った。彼に弟子入りをし、クラシックしかやったことがなかった私の色んなことへの挑戦の日々が始まった。コード読み、弾き語り、作曲、舞台音楽、ジャズ。。。次から次へと未知の世界に引きずり込まれ面白いくらい色んな仕事の話がちゃんと順番に転がり込んできた。ミューズが次から次に課題をくださるから、必死でついていったような感じだ。

2006年、その頃の私は自身でコンサートの企画も始めていた。そのうちの一つで、木管楽器との室内楽のコンサートを企画し、モーツァルトのピアノ5重奏を演奏することにした。が、さすがに誰かにレッスンしてもらわないといけないと思い、なぜか私は昔ちらっと、旭川出身の面白いピアニストが東京にいる話を調律のMさんに聞いたのを思い出し、Mさんに早速連絡。そこで紹介いただけたのが藤田 雅さんであった。

当時は練馬に住んでらした雅さんのご自宅へお邪魔し、モーツァルトのレッスンが始まった。その冒頭のピアノソロの部分を雅さんが弾いてくださった瞬間、私は思わず「私、こうやって弾きたかったんです!!」と叫んでいた気がする。衝撃の出逢いだった。 私、この人に一生ついていこう、この人に近づきたいと、決心した日だった。

2011年に縁あって、我が家にやってきたピアノ、1938年製のスタインウェイを「猫脚のたま」と名付け公共の施設に運び出しピアノフェスティバルを2012年より開催。色んなゲストのライブや、陶芸などアーティストさんの作品展示などを通してハッピーの輪を拡げたいと活動中。最近は司会の仕事もあり、あまりに自由すぎるので、友人にのらピアニストだよねと言われ、職業はのらピアニストに変更。

2016年から、Fさんに紹介され子どもオリジナルミュージカル劇団にこっとちゃ茶、バリアフリーアートの会わーくぽけっとの音楽講師として参加。るんるんピアノデュオとして朗読劇などの劇中歌を作ったり、演奏することが多くなる。イベントの司会をやらせていただいたり、もうこの頃からは本職が何かはわからなくなっている。

2020年は1月5日にバースデーライブを開催、その時に今年は休業宣言をしたら、コロナで見事に本当に休業状態となる。 2021年今まで溜まった作品や、今までやろうって決めてやらなかったことなどを、全部表現していくことを決め、表現したいみんなのネタデパートP-paradiseをOpen。